アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第11号
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!
新しい年になりました。私たちは自分たちの目的を思い出さなければなりません。
毎年、毎月、毎週、毎日、毎時間、毎分、毎秒がそれぞれただ一つの意味を持っています。無原罪の聖母を通して、私たちの主にますます近づくことです。私たちは聖母に奉献されているのですから、私たち聖母の騎士は、こう付け加えるべきです。この新しい年に、私は聖母のために、これまでにないほど多くの霊魂を、さらにずっと多くの霊魂を勝ち取らなくてはなりません。彼らが、聖母を母、そして元后として認めてお愛しし、そうして、その御子、私たちの主によって救われるように。
それぞれの年もまた、特徴を持っています。重要な記念日や聖年のお祝い、または他の重要な出来事(洗礼、初聖体、結婚、最終試験、仕事上の業績など)です。一般に、このような例外的な出来事は、天主の栄光と霊魂の救いのために、これらの出来事をお祝いするか、これらにあずかる人々に対して、天主の御摂理によって与えられる特別な恩寵の源です。私たち聖母の騎士は、これらの降り注ぐ天主の愛に感謝し、徳と使徒的熱意を成長させるよう、その愛から利益を得るべきです。
2016年に注目すべきなのは、二つの特別な行事があることです。天主のあわれみの年であることと、ファチマの聖母ご出現と無原罪の聖母の騎士会設立の100周年を荘厳に準備する年であることです。
私たちは、あわれな罪びとの回心と聖化のために彼らに捧げられた天主の無限の御あわれみという現実についてしばしば考え、黙想すべきです。
さて、聖ベルナルドによると、私たちの主は「御母にあわれみの秩序」を委託なさいました。
そのため、今年、聖母は特別な意味で「あわれみの御母」になられます。聖母は、天主のあわれみ深い善良さが、永遠の死の闇と影の中で生きているもっと多くの霊魂に入っていくように、回心の恩寵という宝をもっと多くの人に広めたいと望んでおられます。聖母は、あわれな罪人たちに降り注ぐ恩寵がもっと簡単に与えられるように望んでおられます。
私たち騎士にとって、これは、聖母の奉仕にもっと自分を捧げようとする信じられないほどのよい動機となります。通常時に私たちの小さな祈りと犠牲が一日あたり多分一つか二つの霊魂を救うとすれば、「あわれみの年」のおかげで、私たちの主は、私たちの小さなつまらない捧げものに対して、さらに寛大にお応えくださるでしょうし、同じ祈りや犠牲に対して、多分10から20の霊魂を救われるでしょう。
言い換えれば、騎士としての私たちの小さな使徒職は、天主の御あわれみのおかげで、はるかに効果的になります。このことは、私たちの望みを大きくしてくれるはずです。ああ、無原罪の聖母よ、あなたは多くの美しい絵を描く力を、あなたの小さなほうきにしか過ぎない私に与えようと望まれるほど、私をたくさん愛してくださいます。「私の愛する子よ、霊魂を救うために私を助けてください!」というあなたの要望と訴えに対して私はどれだけもっと進んでお応えしなければならないことでしょうか。
霊魂を永遠の火から救うためにあわれみの御母の道具になろうという情熱を、私たちが増加させる最良の手段は、私たちがこの2016年中に実現しなければならない第二の事柄です。それは、終わりの時代における聖母のすべてのご出現の中で、おそらく最も重要なご出現に対する準備です。この御出現では、聖母がファチマで私たちに、救いのための最終手段として、聖人になるための簡単で確実な方法として、汚れなき御心を与えてくださいました。従って、私たちは今、真剣に「ファチマの使徒」になることを始めるべきです。
皆さんが今年、天主の無限の御あわれみの泉から、御あわれみを豊かに引き出すため、特別な決心を持つよう提案させてください。
2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心
1.知性のために
a)可能であれば、毎日数分間、少なくとも1週間に1時間、ファチマのメッセージと精神について、深い文章や記事、本を読んだり聞いたりすること(www.fatima.org/resources/books.aspに豊富な文献があります)。
b)少なくとも3回、可能なら各土曜日(聖母の日)に、この手紙に掲載されたファチマに関する文章「ファチマに向けて」を読んで黙想すること。
2.意志と心
a)毎日、可能であればできるだけ頻繁に、罪びとの回心のために射祷を唱える。特に「イエズス、マリア、われ御身を愛し奉る、霊魂たちを救い給え」。
b)毎日、可能であれば少なくとも3回、ファチマの天使の祈りを唱える。
c)毎日、ファチマの聖母の意向でロザリオを唱える。
d)可能であれば、毎月13日に、マリアの汚れなき御心の意向で大斎を捧げる(その日が日曜日または守るべき祝日である場合は、前日または翌日に大斎を移す)。
e)毎初土曜日の務めに参加する(汚れなき御心に対して犯された罪を償う精神で、聖体拝領をし、その月のうちに告白を行い、さらにロザリオとロザリオ十五玄義の黙想を行う)。
3.行動
無原罪の聖母の騎士会の使徒職(不思議のメダイやリーフレットなどを配布すること)に熱心に参加する。
皆さんが、これらの決心を実行に移そうと努力するなら、汚れなき御心が、この2016年に非常に特別な方法で、皆さんのうちに聖母のこの御約束を実現してくださるのは確実です。「私の汚れなき御心は、あなたの避難所となり、あなたを天主へ導く道となるでしょう」。
2016年1月4日、シンガポールにて
カール・シュテーリン神父
----------------------------------------------
ファチマ2017に向けて(4)
1916年秋―天使の三回目の出現
今度は、三人の小さな羊飼いたちは、天使が最初に彼らに現れたのと同じ場所(ロカ・デ・カベコ)で、羊の群れとともにいた。
<私たちがそこに到着するとすぐ、私たちはひざまずいて額を地面につけ、天使の祈りを繰り返し始めました。この祈りを何回繰り返したが分かりませんが、そのとき、私たちは普通でない光に照らされました。私たちは何が起こっているか見るために起き上がると、天使が見えました。
天使は左手にカリスを持ち、その上にはホスチアが浮いており、そのホスチアからカリスの中に御血が数滴落ちました。カリスを空中に浮かせたまま、天使は私たちのそばにひざまずき、私たちに祈りを三回繰り返させました。
―「いとも聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、主ご自身に対する汚聖、侮辱、無関心の償いのため、われ御身に、世のすべてのご聖櫃にましますイエズス・キリストの尊き御体と御血、ご霊魂、ご神性を捧げ奉る。主の至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によって、われ御身に、あわれな罪びとの回心を請い願い奉る」。
そして立ち上がり、天使は手にカリスとホスチアを取りました。天使は聖なるホスチアを私にくださり、カリスの御血をヤシンタとフランシスコに分け与えて、そうしながら次のように言いました。
―「恩知らずの人々によってひどく侮辱されたイエズス・キリストの御体と御血を取って飲め! 彼らの罪の償いをし、汝の天主を慰めよ」。
もう一度、天使は地面にひれ伏し、私たちと一緒に、同じ祈り「いとも聖なる三位一体、…」を三回繰り返してから姿を消しました。
私たちを包む超自然の力に動かされて、私たちはすべて天使がした通り、まねをしました。つまり、天使がしたようにひれ伏し、天使が唱えた祈りを繰り返しました。私たちは、長い間この同じ姿勢で、何度も何度も同じ言葉を繰り返しました>。
黙想
この天使の第三の出現の中心の神秘は、ご聖体です。
天使たちは、常に私たちを主に、具体的にはご聖体にましますイエズス・キリストに導きます。そして、この短い出来事のなかに、私たちはとても多くの光と真理を見いだすのです。
1)天使は左手にカリスを持ち、その上にはホスチアが浮いており、そのホスチアからカリスの中に御血が数滴落ちました。
ここで取りあげられている神秘自体に入る前に、この文章自体がご聖体の神秘を否定するすべての人への致命的な打撃となっています。この文章は、カトリックの真理を強調し、近代主義者によって繰り返されているプロテスタントの誤謬への強力な反論です。事実、終わりの時代における敵の最悪の攻撃の一つは、いわゆる「エキュメニカルなやりかた」を導入することによって、キリスト教の諸宗派を選択肢として扱い、そのような諸宗派が互いの価値を認め、互いに学ばなければならないというような目に見えない「天主の国」の参加者であるかのうように見せかけて、信者の信仰心を減らしたり(また可能であれば破壊したり)しようとすることです。このような「兄弟間の対話」の結果は、内部矛盾です。イエズスはホスチアに実際に現存されているか、いないかのいずれかでしかありません! プロテスタントは「いいえ」と言い、カトリックは「はい」と言います。もしこの二つが選択肢に過ぎないというのであれば、そこにはもう客観的な真理はなく、主観的な「意見」があるだけであり、誰もが自分の望むものを信じることができることになってしまいます。
この疫病に対して、ご聖体の天使はファチマで立ち上がり、唯一のまことの教理としてカトリックの教理を宣言しました。
さらに、天使は次のような精密な表現をすることにこだわります。われ御身に、世のすべてのご聖櫃にましますイエズス・キリストの尊き御体と御血、ご霊魂、ご神性を捧げ奉る…。これは、ローマ公教要理の文章と、トレント公会議の教義の決議文を一言一句繰り返しているかのようです。この文章は、ご聖体における私たちの主の現存そのものを明示しています。
もっと言うべきことがあります。「世のすべてのご聖櫃にましますイエズスの現存」という表現は、イエズスがすべてのご聖櫃の中に、ご聖櫃の中だけにおられるということも、また強調しています。しかしご聖櫃はどこにありますか? カトリック教会だけにあります! この信じられないほどの驚くべき声明が1916年にあったとは何ということでしょうか。そのときからちょうど50年後、第二バチカン公会議後の改革が、カトリック信者の中で、ご聖櫃における私たちの主のまことの現存という信仰を世界的に減少させたのです。
さて、幻視そのものの内容を黙想してみましょう。
「ホスチアから出てくる御血」とは何を意味するのでしょうか?
聖なるホスチアは、主のご霊魂、人性、ご神性と一体となった私たちの主のまことの御体です。血が体から出ているならば、その体は正常な健康状態ではなく病気を患って傷ついており、もっと血を失えば命がもっと危険になることを意味しています。そして、傷は苦しみを意味します! これは、私たちの主がご受難を受け、十字架上につけられてカルワリオで亡くなられたときに、主に起きたことなのです。
さて、ホスチアが主の御体から出るその同じ血を見せているのなら、それが意味するのは、ご聖体、特に聖なるミサこそが、カルワリオの、そして十字架につけられた私たちの主の(犠牲の)更新、カルワリオと私たちの主の現存です。そして、ここで私たちは、来るべき時を予言的に警告するような、次に述べるファチマの驚くべき教えを見るのです。
天使は言うことでしょう。「気をつけなさい、天主の子どもたちよ、聖体祭儀、聖なるミサは、『過ぎ越しの神秘』、主の過ぎ越しを記念するためのテーブルの周りでの『神の民の集会』、祝宴などではありません。ミサは、1969年のノブス・オルド・ミサ(Novus Ordo Missae)の初版で公表されることになるミサの定義によるものではありません。
むしろ、ミサこそ、十字架上における私たちの主の犠牲であり、祭壇上でのその犠牲の提示であり、更新です。ですから、私が子どもたちと共に、イエズスの聖なる御傷と、その信じられないほどの苦しみ、「罪の赦しのための」ご死去を崇めるためにひざまずくように、あなたたちもホスチアの前で、ひざまずくべきです。」
天主はすべてのものを予見なさいます。天主は、世界と聖にして母なる教会に到来する最も恐ろしい危機を予見なさっています。ですから天主は、私たちを助けようと、私たちを慰めようと、闇の中で光を与えようと望んでおられます。私たちは、この次元において、ファチマのご出現を理解しなければなりません。
では最後に、私たちは、20世紀の後半に何が起こったのか問いただしてみましょうか?
私たちの主のまことの現存という現実を、教会の中で誰が支持しましたか?
ご聖体についての聖伝のカトリックの信仰を、誰が保ちましたか?
「であるから、聖ピオ十世会は、司祭をその存在理由に向かわせ、毎日の生活において司祭にその存在理由を具体化させるようにしなければならない。その存在理由とは、ミサの聖なる犠牲であり、それが意味するすべてのもの、それから流れ出るすべてのもの、それを補足するすべてのものである」(会憲2章2節)。
ほぼ20年間にわたって、聖ピオ十世会は、聖体とミサの聖なる犠牲についての伝統的な信仰を擁護し、宣言し、促進する、教会の中でほぼ唯一の団体でした。世界中でノブス・オルド・ミサがカトリック信者の信仰を荒廃させ、祭壇を破壊し、信者の心の中に聖体祭儀のプロテスタント的な概念を持ち込んだとき、ルフェーブル大司教とその霊的な息子たちは、ほとんど自分たちだけでファチマの天使のメッセージを保ち、そのために厳しく処罰されました。天主は、まさにこのような時代にご自分に忠実な子どもたちを慰め、試練や迫害の中で彼らを励まし、真理が何であるか明確に示し、また最高位の教会聖職者たちは真理のしもべにすぎずその主人ではないにもかかわらず、彼らによって忠実な子どもたちさえもが落胆させられないように、天使を送られ、のちには聖母ご自身を送られました。
2.「カリスを空中に浮かせたまま、天使は私たちのそばにひざまずきました」。
私たちは、天使と人間との間の違いは、ほとんど無限であることを忘れてはなりません。聖トマスは、一位の天使の内的な価値は、目に見える全世界以上であると証明しています。しかし、いとも聖なるご聖体の前では、この天使は子どもたちと一緒になって、同じ礼拝の行いをします。天使たちが天主の前にへりくだり、他のすべての被造物と同様に、自分たちをちりや無であるように考えているのなら、天主とはいったいどんなお方でなければならないのでしょうか?
もう一つの見方は、天使が子どもたちと一緒に行なうというまさにその事実です。
人間と天使、見える世界と見えない世界が、天主を讃美し礼拝するために一致して、一つの聖歌隊、一つの会衆になることが、天主のご意志です。戦闘の教会のメンバーが、勝利の教会のメンバー(天使たちと聖人たち)と一致すればするほど、私たちの礼拝は天主により喜ばれるものとなり、私たちは天主を礼拝するより正しい雰囲気の中にいるのです。天国では罪もなく、気をそらすものもなく、不幸にも私たちがあふれるほどもっている他の弱さの名残もありません。したがって、天国の聖歌隊と一緒になる(ミサの序誦を参照)ことで、私たちには、まことの雰囲気が浸透していき、私たち自身に欠けているものから解放されるのです。
最後に、この天使(と子どもたち)の姿勢は、天主をお喜ばせする態度を教えてくれます。なぜなら、天から来た天使は確実に、天主をふさわしくお喜ばせしないことは何もできないからです。ひれ伏すことは、自分を低くし私たちの崇敬する対象を高めるための目に見えるしるしです。ご聖体におけるイエズスは天主であり、その前にひれ伏すことで、私たちは主が私たちの第一の原理であり最終の目的、私たちの王、全てのもの、私たちの存在と私たちの所有するあらゆるものの原因であることを認めるのです。他方で、私たちは主に完全に依存しており、すべてのものにおいて主に属していることをも認めます。被造物の真の状況(われは無、天主はすべて!)を認める態度もまた、謙遜の本質であり、天主をお喜ばせする唯一の態度なのです。
3.償い
これはどんどん知られることがなくなっているのですが、ファチマの天使が強く思い出させてくれるもう一つのまことの信仰の真実は、罪が大変重いことと、愛によってそれを償う必要があることです。
天使の祈りの始まりは、既に償いの行いです。「われ、御身を信ぜ(ぬ)…人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。この祈りは、天主を信じないか、あるいは信じていても礼拝によって天主に服従することを拒否する人々、また天主に希望せず、天主を愛さない人々によって、天主に対してなされた巨大な侮辱のことを考えるよう私たちを招いているのです。このような全ての過ちのため、償いがなされなければなりません。
どのようにして?
罪びとへの御あわれみを得るために、彼らの名によって、彼らに代わって、赦しを請い求めることによってです!
第二の出現の間、天使は子どもたちに、天主になされた罪の償いとして天主に犠牲を捧げることを教えています。
しかし、最も完全な償いの行いは何ですか?
第三の出現が私たちに教えています。天使が償いをするよう私たちを招いているその罪は、天主ご自身に対してなされる汚聖、侮辱、無関心です。
では、私たちはどのようにして償いをしなければなりませんか? 「恩知らずの人々によってひどく侮辱されたイエズス・キリストの御体と御血を取って飲め! 彼らの罪…を償え」。
私たちは御父に対して、聖霊において、世界のすべてのご聖櫃にまします私たちの主ご自身をお捧げします。ですから私たちは、ミサにおいて「多くの人々の救いのために」満足となだめの犠牲として御自らをお捧げになるイエズス・キリストに自分を霊的に一致させます。私たちは、私たちのために渡された主の御体、流れ出た主の御血、ひどい苦悶の中におられた主のご霊魂、そして最後に「赦しとあわれみ」に満ちた主のご神性をお捧げします(1929年6月13日のトゥイでの幻視を参照)。イエズスの聖心のこれらの無限の功徳に、私たちは、主の御母であり私たちの仲介者、共贖者であるマリアの汚れなき御心の功徳を加え、これらの功徳を一緒にして天の御父にお捧げし、御父から罪びとの回心を獲得するのです。
この償いの行いの究極の現実は、聖体拝領にあります。
すでにこの時点で、天使は子どもたちに有名な償いの聖体拝領のことを教えています。これは、マリアの汚れなき御心への信心に欠かせないものの一つです。
私たちは、天使が子どもたちに神秘的なご聖体を授けたときの、天使の祈りの言葉を暗記すべきです。
まず第一に、この祈りの言葉には、見事な神学的正確さがあります。ルチアはホスチアを受けますが、ヤシンタとフランシスコはカリスの御血を受けます。しかし、三人全員に対して天使は言います。「イエズス・キリストの御体と御血を取って飲め」。この言葉は、一つの形態でご聖体を受ける者は誰であれ、イエズス・キリスト全体を、御体、御血、ご霊魂、ご神性を受けるということを示しています。
この祈りはまた、イエズスがその愛の秘蹟においていかに侮辱されておられるのかについて、印象的な方法で思い出させます。そして、私たちがこれらの「無関心、無視、侮辱」に対して行うことのできる最も完全な贖罪と償いは、「天主をお慰めする」ために、償いの精神でご聖体を受けることなのです。この実践は大変重要であるため、聖母は再びそれをお求めになりました(1925年12月10日、ポンテヴェドラで)。
天使の出現のまとめとして、私たちはこう述べることができます。これらの出現の経緯を読むとき、その中に、下品な兆候などいささかもないこと、矛盾していたり子どもじみていたり陳腐だったりすることも全くないことが分かります。目立ちすぎたり人工的だったりするものもなく、単に深遠な真理があり、簡潔で力強く表現されています。非常に簡潔な言葉と姿勢で、私たちの聖なる信仰の最も深遠な真理が表現されています。これらの出現をしばしば黙想すれば、私たちにまことの天主の雰囲気がもたらされ、(その雰囲気が子どもたちに準備させたように)私たちが聖母に近づく準備ができたり、またさらにすばらしいことですが、聖母が私たちに近づいてくださるように準備ができるのです。さらに、天使たちが子どもたちに行うよう求めるものを私たちが果たすならば、私たちは天主に対する被造物の正しい態度を知り、私たちの中におられる天主の現存、特にご聖体におられる天主の現存を真に理解することができるでしょう。