福者ジュリアン中浦神父

中浦ジュリアンは、1567年、キリシタン大名大村純忠の家臣、西海(長崎)の中浦城主の一人息子として生まれ、12歳で有馬に開校されたセミナリオの一期生として入学。1582年、マンション伊東、ミカエル千々石、マルチノ原とともに4人の天正遣欧使節の一人として選ばれ、グレゴリオ13世に謁見し、8年後に帰国した。 ヨーロッパ文化に興味をもつ秀吉に謁見の後、遣欧使節の任務を終えてイエズス会の修練院に入り初誓願宣立後、天草のコレジオ、マカオのコレジオで神学を学んだ。同期の仲間たちが次々に司祭に叙階される中、遂に1608年39歳で司祭に叙階された。忍耐をもって長い間待つことにより、深い信頼とひたむきな祈り、自分の人生を神と人に捧げる決意は堅固にさせられ、不屈な司祭の誕生となった。

1612年に徳川家康は最初の大禁教令を出した。1614年の禁教令が出て、ジュリアンはイエズス会内で潜伏司祭に選ばれ、口之津を根拠地として九州各地の信者の世話に奔走した

信者たちは足の悪かったジュリアン神父を背負い籠にいれて隠し、峠を担いで各地を移動したりした。

「毎年告解する4千人以上の信者がわたしに任されています。一時といえども休息できません。この手紙をかいている最中に、信者が飛び込んできて、もっと安全なところに逃げるようにと知らせてきたのです。... 天主様のガラサのおかげで、私はまだ健康を保ち、イエズス会の責務の司牧をする精神力を持っています。役立たずのしもべ、ジュリアン中浦」(総長顧問マスカレニャスへの手紙より)

1632年、遂にジュリアン神父は小倉で捕らえられて長崎の有名な「クルス町(現桜町)牢屋」に送られた。

投獄された長崎の牢で殉教を待っていた他の数人のイエズス会の宣教師と一緒になった。

1633年、長崎で二奉行制が始まり、将軍家光の指示で徹底した弾圧を加えられ、特に宣教師たちを棄教させるために新しい拷問である穴吊り責めが始められた。その恐ろしい責め苦を最初に受けたのはイエズス会宣教師イルマン・ニコラオ・福永ケイアンで、7月28日から4日間英雄的にそれに耐え、彼の修道会創設者の聖イグナチオの祝日31日の朝に息を引き取った。最後に聞こえたのは聖母の連祷を唱える声だった。

その日から毎日のように殉教者が出たが、奉行は信者の信望も厚く有名であったジュリアンを特別に棄教させようとした。ジュリアンは10カ月の間、しばしば奉行所に呼ばれて厳しい取り調べを受け、ある時には棄教と引き換えに領地を供与する条件が出され、また拷問にかけるという脅しを受けてもジュリアンは微動にもしなかった。ジュリアンは牢屋の中で仲間と共に祈り、殉教のための準備をした。

10月18日、ドミニコ会員のルカス・アロソノ神父とイルマン・マテオ、イエズス会のアタミ、ソウサ、フェレイラ神父、イルマンのペドロとマテオ共に中浦神父は、手を縛られ、西坂の刑場へと向かった。さまざまな拷問の中でも特別に苦しい穴吊の刑に処せられてフェレイラ神父(棄教した)を除く7名と共にその信仰を最後まで守り通して殉教した。穴吊りのためきつく縛り上げられる間、独り言のように最期の言葉をつぶやいた。「この大きな苦しみを天主への愛のために」。

4日間の壮絶な苦痛に耐えた10月21日、享年64歳であった。 遺体は焼かれ、灰は長崎の港の海に撒かれた。「役立たずのしもべ」ではない。

参考資料  ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編) ・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社) ・キリシタン地図を歩く(ドン・ボスコ社) ・日本殉教史(片岡弥吉)・中浦ジュリアン(結城了悟)日本の花束(カルディム)


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