永井隆

略歴

1908年 島根県松江市に生まれる。

1932年 長崎医科大学卒業 長崎医大助手 物理的療法科勤務 放射線医学を専攻。

1934年 6月受洗。洗礼名はパウロ。同8月マリア森山緑と結婚。

1940年 長崎医科大学助教授となり物理的療法科部長となる。

1944年 医学博士となる。

1945年 過度の散乱放射線被曝による慢性骨髄性白血病で「余命3年」と診断される。

1945年 8月9日、長崎市に投下された原子爆弾で被爆、右側頭動脈切断の重症を負い最愛の妻を失;う8月15日 終戦; 11月23日 被爆死者合同慰霊祭で弔辞をのべる

1946年 病状が悪化、寝たきりの生活が始まる。

1948年 浦上カトリック信者達の厚意により「如己堂」が建てられ贈られる。

1951年 5月1日、43歳で永眠。

被爆と救護活動

1945年8月9日11時2分、世界が真っ白い光りにつつまれ、すさまじい爆風と共に超高熱が走った。米軍機から長崎に原爆が落とされた。

この時、永井博士は、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学の研究室にいた。あいつぐ空襲で負傷した患者であふれた教室で、自らの白血病と闘いながら診察中の被爆だった。

原爆投下から3日目の8月11日 、帰宅して台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸と焼きただれた緑のロザリオを発見し、その骨片を拾い埋葬した。その後、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護に当った。

「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。

見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。

わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」(永井 隆著「この子を残して」より)

多くの研究資料が灰となり絶望感に打ちひしがれた博士は、目の前の新しい現実に立ち向かわねばならないことに気づき、救護活動に立ち上がった。そして新たな課題まだだれも研究したことのない病気、原爆症の研究が待っていた。救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆した。(25年後に発見される。)

被爆した博士は、右半身に多数の硝子片切創を負い、特に右耳前部の傷は深く、右側頭動脈が切断されるほど重傷で滝のごとく噴き出す鮮血を、三角巾で縛っての負傷者の救護活動だった。

9月20日、傷口からの出血が止まらず二度目の昏睡状態に陥り、このため救護班は解散。マリア会の田川神父に告解をして終油の秘蹟を受けた。その後、出血が奇蹟的に止まった。この時永井隆は、本河内のルルドの水を飲み、「マキシミリアノ・コルベ神父(かつて診察したことがあった)の取次ぎを願え」という声が聞こえたようなので、それに従ったという。

如己堂

床に伏せた博士は、ベッドの中から原爆症の研究と執筆活動に入る。

1948年春、浦上の人々や教会の援助により建てられた如己堂が完成し、永井博士に贈られた。

この小さな庵は聖書の一節「己の如く人を愛せよ」(マルコ12章31節)という言葉により如己(にょこ)堂とされた。

わずか二畳の部屋の中から博士は執筆によって、浦上の人々をはげまし続けた。「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」などの小説や随筆のほかに、絵画、和歌、短歌など次々に発表した。

「私の寝ている如己堂は、二畳一間の家である。私の寝台の横に畳が一枚敷いてあるだけ、そこが誠一とカヤノの住居である。」「天主の御栄のために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。」(永井隆著「この子を残して」より)

博士は、母親を失いやがて孤児となる二人の運命を案じていた。その思いや愛が、後に数々の名作を生み出す原動力となる。

長崎原爆死者合同葬においての永井博士の弔辞(手稿全文)

「昭和20年8月9日午前10時30分から、大本営に於いて戦争最高指導会議が開かれ、抗戦か終戦かを決定することになりました。この会議の結果に日本の運命のみならず世界の運命がかかってきました。世界に新しい平和をもたらすかそれとも人類を更に悲惨な戦乱に陥れるか、運命の岐路に世界が立っていた時、即ち午前11時2分、一発の原子爆弾は吾が浦上の中心に爆裂し、信者八千の霊魂は一瞬にして炎々と燃え上がりし猛火は忽ちにして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しました。それと全く時刻を同じうして大本営に於いては畏くも天皇陛下が軍部の強硬なる抗戦論を押さえ 世界平和の為に終戦の聖断を下し給うたのでございます。

八月十五日終戦の大詔が発せられ、世界あまねく平和の朝を迎えたのでありまするが、この日は実に聖母の被昇天の大祝日に当っておりました。日本は聖母に献げられた国であり、吾浦上の天主堂もまた特に聖母に献げられたものであることを想い出します。

これらの奇しき一致は果たして単なる偶然でありませうか、それとも天主の妙なる摂理の現れでありませうか。長崎市の中心、県庁付近を狙った原子爆弾が天候のため北方に偏り浦上のしかも天主堂の真正面に流れ落ちたという事実や、この原子爆弾を最後として地上何処にも戦闘の起こらなかったという事実などを併せ考えまするならば浦上潰滅と終戦との間に深い関係の在ることに気付くでありましょう。即ち、世界戦争という人類の罪の償いとして浦上教会が犠牲の祭壇にそなえられたのである、いと潔き羔として選ばれ屠られ燃やされたのであると私共は信じたいのであります。

アダム・エワが知恵の木の実を盗んだ罪と、弟を打殺したカインの血とを承け伝えた人類が、同じ天主の子でありながら愛の掟に背いて、互いに憎み合い互いに殺しあったのがこの世界大戦争でありました。昭和六年満州事変以来十五年間の戦乱を終わり再び平和を迎えるためには世界人類が深くその罪を悔い改めるばかりでなく、適当な犠牲を天主に献げてお詫びをせねばなりませんでした。これまでうちに幾度か終戦の機会はあり、爆撃により全滅した都市もまたいくらもありましたが、しかしそれは犠牲としてふさわしくなかったから天主はいまだこれを容れ給わなかったでありましょう。然るに浦上教会を挙げて献げた時始めて天主はこれを善として容れ給い、人類の詫びを聞き入れ、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたものに違いないと拝察するのであります。言い換えれば浦上が犠牲になったからこそ終戦となったのである、この犠牲によって十数億の人類が戦乱の惨禍から救われたのであると思うものであります。

信仰の自由なきわが国において豊臣徳川の迫害に滅ぼされず、明治以来、軍官民の圧制にも負けず、いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通したわが浦上教会こそはまこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に献げられるべき潔き羔の群れではなかったでしょうか。ああ世界大戦争の闇まさに終わらんとし平和の光さしそめる八月九日この天主堂の大前に立てられたる大いなる燔祭よ。

悲しみの極みのうちにも私共はそれを美しきもの、潔きもの、善きものよと仰ぎ見たのでございます。

西田神父様、玉屋神父様。純心や常清の童貞様、宿老様、教方様、十字会の姉様、親戚、友達、うちの者・・・・・・誰を思い出しても善い人ばかり・・・・・・しかもふくれ饅頭

祝日のために告解を済まし或いは糾明を終えていたあなた方でありましたから八千人お揃いで天国行きの雲にのせられたことと思っています。

敗戦を知らずにこの世を去ったあなた方こそ幸福であると言わねばなりません。潔き羔として天主の御手に抱かれているあなた方に比べ、生き残った私共はなんという哀れな惨めな者でしょうか。日本は負けました。浦上は全くの廃墟です。見ゆる限りは広々とただ灰と瓦。住むに家無く、着る衣無く、薯畑も荒れ果て耕す人もなし。大事な働き手だったあなた方を失った私共わずかばかりの遺族はただぼんやり焼け跡に立ち、迫りくる雪空を仰いで祈りを捧げているのです。あの日、あの時あなた方となぜ一緒に死ねなかったのでしょうか。なぜこんな惨めな敗残者として生き残らねばならないのでしょうか。

今こそしみじみ私の罪の深さを知らされました。私どもはまだ償いをはたしていなかったから選び残されたのです。余りに罪の汚れが大きいために祭壇に供えられなかったのでありましょう。

私共がこれから歩まねばならぬ敗戦国民としての道は真に悲惨であり苦難に満ちたのものであるに違いありません。又ポツダム宣言に基づき私共に課せられる賠償は実に大きな重荷であります。この重荷を負うて行くこの苦難の道こそ然しながら私どもの罪の償いをはたすことのできる希望の道ではありますまいか?

福なるかな泣く人、彼らは慰めらるべければなり。この御言葉を信じ天国に容れられる喜びを予期しつつこの苦難の道を私共は正直に、ごまかさずに進んでゆこうと思います。嘲られ、罵られ、鞭打たれ、汗を流し、血にまみれ、飢え渇きつつ私共が賠償の重荷を担い行く時、かのカルバリオの丘に十字架を担いのぼり給いしわが主

イエズス・キリストは必ず私共を勇気づけて下さるでしょう。どうか特別の勇気を弱き私共に賜りまする様、

聖母の御取次ぎにより天主に御願い下さいませ。

本日は長崎教区主催にてあなた方のために、この浦上天主堂の廃墟に於いて合同葬が営まれ仙台浦川司教様の歌ミサと赦祷式とがあげられました。浦上出身の司教様、神父様、童貞様が日本中から帰り来られ八千本の十字架をかかげる二千名の遺族と共に心しみじみ祈りを捧げております。天主の御憐みによりこの御ミサの功徳により、煉獄の火に浄められて早く天国へ上って下さい。

ああ、全知全能の天主の御業は常に讃美せらるべきかな!浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝致しましょう。浦上教会の犠牲によりて世界に平和が恢復せられ、日本に信仰の自由が与えられたことを感謝致しましょう。

願わくは死せる人々の霊魂、天主の御哀燐によりて安らかに憩わんことを。アーメン。

(長崎大学論叢 第18号 小西哲郎「永井隆の原子爆弾死者合同葬弔辞」より)

逝去

死ぬ前に医学生に白血病の最終段階を見せて、病気への知識を深めるのに役立てたいという永井の希望により、5月1日に長崎大学付属病院に緊急入院。一時意識不明になったが再び意識を取り戻し、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、駆けつけた息子の誠一から十字架を受け取ると「祈ってください」と叫んだ直後に息を引き取った。午後9時50分であった。


No photo  Saints_93.jpg

No photo  Saints_94.jpg

No photo  Saints_95.jpg

原爆で焼けただれた「緑」婦人のロザリオ(赤い部分はサンゴ)

No photo  Saints_95a.jpg

原爆で焼けただれた「緑」婦人のロザリオ(赤い部分はサンゴ)

No photo  Saints_95b.jpg

原爆で焼けただれた「緑」婦人のロザリオ(赤い部分はサンゴ)

No photo  Saints_96.jpg

原爆で焼けただれた「緑」婦人のロザリオ(赤い部分はサンゴ)

No photo  Saints_97.jpg

原爆で焼けただれた「緑」婦人のロザリオ(赤い部分はサンゴ)