日本での長崎・秋田巡礼
2016年4月29日~5月8日まで、アジアから日本の秋田へ
信徒たちによる毎年恒例の巡礼が行われました。
今年、巡礼団は、聖マキシミリアノ・コルベが無原罪の園を創立した場所である長崎も訪問しました。
日本、シンガポール、フィリピン、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、ドイツ、スイス、ポーランドから
全体を通しおよそ100人の方々が巡礼に参加しました。
3人の司祭が巡礼者の霊魂のために、巡礼を指導しました。
アジア管区長 カール・ジュテーリン神父様、フィリピン、マニラのミッションの長上であり
日本でのミッションも担当なさっている小野田神父様、フィリピン、マニラで小学校と高校の
校長先生をしていらっしゃるピーター・フォルティン神父様です。
巡礼は長崎で始まりました。
巡礼の各日は、歌ミサとともに始まりました。御ミサはアジア管区長であるシュテーリン神父様が
挙行し毎日御ミサの後には霊的講話をして下さいました。
毎日の霊的講話は、長崎の殉教地と、聖マキシミリアノ・コルベゆかりの場所を訪れるための
良い霊魂の準備となりました。
長崎ー小さなローマ
1492年、コロンブスがアメリカに到着した時、ポルトガルはアフリカ南海岸の喜望峰を通る
アジアまでの新しいルートを設立していました。
16世紀初めには、ポルトガルはゴア・マラッカ・マカオに貿易拠点を設け、
そして1543年、ポルトガル船が正しい航路から外れ漂流し種子島に到着した時、
日本は西洋とはじめての直接の接触をしました。
イエズス会の創立者の1人であるフランシスコ・ザベリオはマラッカで出会った日本人、
アンジロウ(ヤジロウ)から新しく発見された島・日本とそこに住む人々の新しい教えに
対する強い好奇心について聞き、日本で宣教活動を始めることを決めました。
ザベリオが1549年に鹿児島に上陸したとき、キリスト教は初めて日本に伝えられました。
翌年、ザベリオは平戸と山口を経由し、当時日本の首都であった京都を訪れ宣教活動を行いました。
ザベリオの後を追ってイエズス会や他の多くの修道会の宣教師達が日本へやって来ました。
彼らは日本語、日本の文化、習慣を理解するように努め、多くの日本人がカトリックへ改宗しました。
また他の日本人たちは、彼らが運営する病院や他のカトリック慈善事業を通して改宗しました。
このようにして日本中の至る所にキリスト教が広まり、特に西日本に広まりました。
長崎地域では多くの人が平戸、横瀬浦、口之津、天草、長崎、五島列島のような交易の
拠点で改宗しました。
この結果、長崎はキリスト教の中心地として発展しました。
宣教のピーク時には、10以上の教会と病院が点在し徳川家康によって寛大に扱われ、
貿易商人たちには「小さなローマ」として知られました。
長崎1日目
巡礼団は日本最初の殉教地を訪れました。
西坂の丘は豊臣秀吉の禁教令の下、1597年2月5日
6人のフランシスコ会宣教師と20人の日本人が処刑された場所です。
聖マキシミリアノ・コルベは度々この場所を訪れて祈りました。
巡礼団は日本二十六聖人記念館も訪問しました。
記念館は祈祷書やミサ典書を含む、多くの日本キリスト教初期
からの貴重な品物を保存しています。
聖フランシスコ・ザベリオ直筆の手紙も見ることができます。
博物館を出て、日本二十六聖人の記念碑の前で
記念写真を撮った後、私たちはポーランドからの巡礼団に
会い、私たちは「Appeal of Jasna Góra」と「Mother of God」という
巡礼の聖歌の冊子に載っていた2曲のポーランドの伝統的な聖歌を一緒に歌いました。
2曲を先唱して歌われたのは、3年前にポーランドで聖ピオ十世会ポーランド管区の
チェンスト・ホーバー巡礼に参加された小野田神父様でした。
長崎2日目
2日目は、雲仙地獄を訪れました。
巡礼団は島原城のキリシタン史料館を訪れました。
その後、巡礼団は有明海にも行きました。
ここで、日本の様々な場所から連れてこられたキリシタン達が船から海に投げ入れられました。
訪問した殉教地のそれぞれで、私たちは1連のロザリオをお捧げしました。
長崎3日目
3日目は長崎原爆資料館を訪れました。
1945年8月9日の原爆投下後の浦上天主堂の前面壁が保存され、資料館の中で
主要な展示物となっていました。
原爆投下後の天主堂から発見された少ない遺品の中に、
壊れた(原爆の熱戦によって溶けた-訳者注)ロザリオを見ることができます。
原子爆弾が爆発した時、爆心地から500mに位置した浦上天主堂では
2人の司祭が天主堂の中で告解を聞いていました。多くの人々が告解後の祈りをし、
また、告解を行うのを待っていました。資料館に展示されているのは、
この人々の持っていたロザリオだったのです。
資料館を訪れた後、浦上天主堂の柱が建っている近くの公園(浦上・平和公園 浦上天主堂の
遺壁の一部である柱が移築されている-訳者注)に行き、聖母の連祷を唱えました。
同じ日、原爆投下後に献身的に周囲の人々の世話をした永井隆博士の
小さな庵(如己堂)を訪れました。
この博士と妻はカトリック信者でした。第二次世界大戦前と大戦中、博士は放射線学の研究を
行っていました。彼は聖マキシミリアノ・コルベと出会い、神父の診察も行いました。
(博士は神父の肺をレントゲン撮影しました。神父は結核を患っていました。)
原爆投下の少し前、1945年6月、博士は自分が白血病を患っており
余命3年であることを知りました。
1945年9月20日、永井博士は田川神父から終油の秘跡と告解を受けました。
博士は「聖マキシミリアノ・コルベの取り次ぎを願え。」という声を聞きました。
彼は、無原罪の園にあるルルドの小さな洞穴を訪ねコルベ神父に聖母マリア様の取り次ぎを
願い、寿命を伸ばしてくれるよう頼みました。
前に聞こえた声と同じ声に従って、博士は無原罪の園のルルドの水を飲みました。
博士の願いは聞き入れられ、その後6年間、生き続けました。
原爆が投下された日(1945年8月9日)博士は病院にいました。
博士の妻は家にいて、その場で亡くなりました。
博士は妻の死についてこう言いました、
「私は家に戻りました。そこは一面灰になっていましたけれども妻をすぐに見つけました。
キッチンだった場所で黒焦げのかたまりで横たわる緑は、天国に昇りました。
すべて焼き尽くす程の火事によって黒焦げの骨しか残っていませんでした。
ロザリオと十字架が近くに落ちていました。」
博士は、病気により5年間病床に伏していました。大きな身体的苦しみと戦い、
1951年に亡くなるまで寝たきりの状態で17冊の本を書きました。
長崎原爆犠牲者のミサでのパウロ永井博士の弔辞です。
「本日は長崎教区主催にてあなた方のために、この浦上天主堂の廃墟に於いて
合同葬が営まれ仙台浦川司教様の歌ミサと赦祷式をがあげられました。
浦川出身の司教様、神父様、童貞様が日本中より帰り来られ八千本の十字架をかかげる
二千名の遺族と共に心しみじみ祈りを捧げております。
天主の御憐れみによりこの御ミサの功徳により、煉獄の火に浄められて早く天国へ上って下さい。
ああ、全知全能の天主の御業は常に讃美せらるべきかな!
浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝致しましょう。
浦上教会の犠牲によりて世界に平和が恢復せられ、日本に信仰の自由が与えられたことを
感謝致しましょう。
願わくは死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんこを。アーメン」
長崎4日目
巡礼の開始から4日目、シュテーリン神父様は聖マキシミリアノ・コルベが
1930年に(日本への宣教)のためポーランドを出発するまでの話をしてくださいました。
この日は1856年「隠れキリシタン」達が信仰を告白した大浦天主堂を訪れました。
250年間、信仰を隠し、守り続けたキリシタン達のこの衝撃的・感動的な発見は、
世界中に報告されました。
巡礼団は、大浦天主堂で信徒発見の聖母と言われる聖母子像の前で祈りを捧げました。
聖マキシミリアノ・コルベも度々このご像の前で祈りを捧げました。
聖マキシミリアノ・コルベが哲学の講義を行った神学校が大浦天主堂の隣にあります。
長崎司教区の早坂司教は、哲学の講師を探しており、コルベ神父に哲学の講師に
なってくれるよう申し出ました。
それと引き換えに、コルベ神父は日本語の「騎士誌」を刊行することができ、その翻訳と経営を
日本の聖職者達と神学生たちに依頼することができました。
今日、大きなホールに聖マキシミリアノ・コルベにいついて専門的に展示を行う
聖コルベ館があります。美しい展示は、聖マキシミリアノの生涯と活動について提示しています。
巡礼団は日本語で発行された「無原罪の聖母の騎士」の第1号を大きな関心をもって見ました。
聖マキシミリアノ・コルベの殉教に関連した展示物もありました。
聖マキシミリアノ・コルベが日本に来て最初の9ヶ月間借りていた小さな家も訪ねました。
そこにはコルベ神父が既に導入し「無原罪の聖母の騎士」誌を印刷していた印刷機もありました。
残念ながら、神父が最初に住んだ家で残っているものは大きなレンガの煙突だけでした。
家の壁は長崎の湿った気候の中で保存することができなかったのです。
新しい木の壁は20世紀の終わりに再建されました。
シュテーリン神父様が同じ場所で聖マキシミリアノについての話を続けてお話くださいました。
聖マキシミリアノは、天主の御言葉を受け入れる準備が最も整っている国として、
彼の最初の海外宣教地に日本を選びました。
聖マキシミリアノは1932年に日本人について書いています。
「日本の社会は私達を溢れるおもいやりを持って待遇してくれます。
彼らは私たちのことをもっともっと理解し、最近は彼らはポーランドのニエポカラノフが送って
くる記事の代金を回収しません。何故なら彼らは私たちのことを貧しい修道士であり、
日本の良い人々の為に働いていると考えているからです。異教徒達は、私たちに親切に
援助をよこし、また必要ならば利息と形式的な保証書なしに大金を貸してくれます。
ここ数日、異教徒の日刊紙から2人の記者が私たちを取材に来て、
異教の教義と比べて優れていることに重点を置き、私たちの教義を非常に好意的に記述しました。
これは、異教徒から我々への支持を再び強めました。」
その後、聖マキシミリアのによって1931年に創立された無原罪の園に行きました。
無原罪の園は、風光明媚な山の急斜面に位置しています。
聖マキシミリアノ神父と彼と共に働いた修道士達によってすべての木造の建物のうち、
コルベ神父が使っていた小さな部屋だけが残っています。
他の全ての建物は建て直されされました。(上述のように木の建物が長崎の湿った気候の中で、
長期間保存できなかったためです。)
しかし、印刷機と印刷のために使われた活字と過去に出版された全ての
「無原罪の聖母の騎士」誌は、素晴らしい状態で保存されていました。
聖コルベ記念館には、コルベ神父直筆の記録や手紙も保存されています。
その中には、コロンボにてインドの無原罪の園の土地の購入に関して書かれた手紙や
1940年10月にポーランドで書かれ、日本の無原罪の園に送られた手紙もあります。
手紙の中には、祈りの必要について以下のように
書かれています:
「いつ上海で無原罪の園が誕生するでしょうか。いつアンナに?
いつインマクラータが、長崎の神学校で使用されている極東の漢字を使う人々が
無原罪の御孕りの中にある神の愛へとその国の人々の魂を準備しあげる、という望みを
満たしてくださるでしょうか?インマクラータにその時を決めていただき、
私たちはその時が早く来るように祈りましょう。
本当に祈りは過小評価されていますが、しかし、天主の愛のより近くに彼らを連れて行くために、
また、彼らに天主の保護を与えるために、霊魂に平和を回復する最も強力な手段です。
祈りは世界を回心させるでしょう。
祈りは全ての霊魂の回心と生命のために欠くことのできないものです。
祈りを通し、幼きイエズスの聖テレジアは修道院の回廊から出ることなしに、
名義上だけではなく、事実私達が経験が示したように宣教師たちの保護者となりました。
祈りましょう、よく祈りましょう、口祷によって、また念祷によってよく祈りましょう、
インマクラータがますます私達の霊魂の主人となってくださるように
ますます全てにおいてインマクラータと一致することができますように、
罪と欠陥とがなくなりますように、柔和に力強く天主に近付くことができますように。」
巡礼団は、美しいルルドの洞窟へも訪問しました。ルルドの洞窟は、
聖マキシミリアノと彼の修道士達によって建てられました。
1945年、この洞窟で永井博士は寿命を伸ばしてくれるよう祈りました。
博士はコルベ神父の殉教を既に知っていたのです。
教会(無原罪の園のすぐ近くある本河内教会-訳者注)では、聖マキシミリアノ・コルベの
聖遺物(神父様のあご髭)を見ることができました。
前述の通り、無原罪の園は山の急斜面に位置しています。
建物とルルドの洞窟を行き来するには、急な坂道に打ち勝たなければなりませんでした。
病気により1つの肺のみで呼吸をしながら、
急な坂道を行き来していたコルベ神父様の偉大な努力と共に。
神父様の長崎での宣教活動の間、カトリックの信者数は2倍になりました。
それは神父が歩み、働いた場所に大きな憐れみが触れたのでした。
長崎は毎日晴れており、しばしば雨の降る長崎では、このようなことは前例のないことでした。
長崎最終日には、巡礼団が秋田へ飛び立つ前に激しい雨がさよなら、と伝えてくれました。
秋田-マリア様のご出現
巡礼団は5月3日夜に秋田に到着しました。
毎日の巡礼は、歌ミサとその後のシュテーリン神父様の憐れみの御母に関する
霊的講話から始まりました。全ての霊的講話は後ほど掲載致します。
午後には聖体奉仕会の修道院を訪問しました。秋田は聖母マリア様のご出現で有名です。
巡礼団はロザリオを祈りながら修道院までの道のりを行きました。
修道院の御聖堂の聖母マリア様のご像の前で、ロザリオを祈り、
マリア様を讃える聖歌を歌いました。
毎日、修道院から戻ってきた後にもシュテーリン神父様はもう1つの霊的講話をして下さいました。
金曜日には御聖体降副式が行われました。
巡礼に際し、10人の新しい無原罪聖母の騎士の入会式が
シュテーリン神父様によって行われました。
巡礼団は秋田を2016年5月8日に出発しました。
巡礼はインマクラータと聖マキシミリアノ・コルベ神父様を深く知るためのすばらしい時間となり、
とりわけ巡礼の全ては無原罪聖母の騎士と聖母マリア様の子ども達の霊的な成長に貢献しました。
巡礼を完璧に計画してくださった小野田神父様と日本の信者の方々に深く感謝致します。
私たちは特に親切と寛大さに深く感謝致します。
インマクラタータに感謝!