アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号
無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!
毎年、無原罪の御宿りの祝日が近づくと、聖マキシミリアノ・コルベはあふれんばかりの霊的な喜びで満たされ、修道士たちにその喜びを伝えていました。この偉大なる教義は聖母ご自身だけに関係するのではなく、私たちに対しても優れて実践的な結果をもたらす、と聖マキシミリアノは、しばしば彼らに説明していました。12月8日が近づきますから、彼と共にこの神秘に入り、それについて黙想しましょう。その日は、騎士全員が無原罪の聖母への奉献を確実に更新すべき日なのです。
今年、教皇様は「天主のいつくしみ(あわれみ)の年」を宣言しました。12月8日に荘厳に始まります。広く説明されてきていることは、不幸にも天主の御あわれみの理解そのものについても、その私たちの生活への影響についても、多くの霊魂を大変な災厄に導くことになるような全くの誤った解釈がおこなわれているということです。彼らを回心させて回心と聖化というあわれみ深い恩寵を受けさせる代わりに、この偽りのあわれみは、彼らに自らの罪を続ける決意を固めさせ、「天に向かって復讐を叫ぶ」忌まわしい行為さえも寛容に扱い、また正当化するのです。さらに、「光であり、その中に闇は一切ありえない」という天主の本質そのものについての完全に誤った理解を示しているのです。
それにもかかわらず、私たちは、教皇の意向すなわち教皇の個人的な考え方と、最高の権威者による行為とを区別しなければなりません。つまり、最高の権威者が、「聖年」を定めることによって、天からのあふれんばかりの恩寵が来るよう天を開いてくださったのであり、私たちがその恩寵に対して自分の心を開くなら、それを受けることができるのですから。エルザレムでの枝の主日の出来事のあとの大司祭の言葉を思い出しましょう。彼は言いました。「民のために一人の人が死ぬ方がよい」。カヤファの意向は確かに悪しきものでしたが、大司祭としての職務において彼が述べたその言葉は、預言的であり正しいものでした。同様に、「今年の大司祭」の意向にもかかわらず、最高の大司祭イエズス・キリストはご自分の代理者による客観的かつ法的に正当な決定を尊重され、そのため主は、世界と教会にかつて見られたうちで最悪のこの危機の時において、その無限の御あわれみをあわれな人類に注ごうと望んでおられるのだ、と私たちは結論できるのです。天主だけが、悪をより高い善へと変えることがおできになり、そのため、天主は多くの高位聖職者の心にあるあわれみについての誤った考えさえもお使いになり、この一年の間に、まことの御あわれみをお示しになることができるのです。
しかしながら、この地上にいる司祭一人一人の任務は、教会の教導権、教父たち、教会博士たち、まことの聖人たちによって明らかにされ、教えられた天主のまことの御あわれみを信者に提示することです。そうすれば、あわれみの年は、よい心構えをもって天主の愛の泉に近づく全ての人々にとり、大きな恩寵の源となるでしょう。
「偶然によって」は何も起こりません。それゆえに私たちは、どこでも常に天主の御摂理の道を見いだすべきです。私たちの主が、無原罪の御宿りの祝日にあわれみの年を開始するよう、教皇様に霊感をお与えになったのは、「偶然によって」ではありません。事実、天主の御あわれみの神秘を表すのに、すべての被造物の中でただお一人だけ汚れなく、原罪を免れておられた聖母の御宿り、聖母の存在のまさに始まり、それ以上の時はありません。無原罪の御宿りにおいて、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのか、そして、天主とのこの根本的な関係が無限の御あわれみであるよう望んでおられることを世にお示しになるのです。
天主の御あわれみは、無でしかない者への天主のまったくあわれみ深い謙遜の御業です。天主は、まったく見返りをうけることなく、無償の愛をくださいます。さらに、これは私たちに対する天主のまさに最初の御業なのであり、私たちの側からでき得るどのようなお応えよりも先にあるのです。天主は、その全能と上智をお使いになり、無条件であふれるほど豊かに、ご自身の愛、光、幸福、内的な喜びを与えてくださいます。天主は、私たちがこの永遠のあふれるほどの賜物の基礎の上に存在することを望んでおられます。天主は、その命で私たちを豊かに満たそうと望んでおられます。
しかし、私たちが、天主の賜物に対して、それを喜んで受け入れ、それに対して完全に心を開く場合にのみ、天主はこれを行うことがおできになります。罪を通して、私たちはこの天主の愛の流れを妨げており、天主に私たちへ御あわれみを与えていただく代わりに、私たちがこれらの賜物を受ける権利を持っていたかのように、私たちが自分自身でその賜物を得ることができるかのように思ってしまうのです。これは傲慢な態度であり、私たちの心の奥の本質はもちろん、天主の心の奥の本質まで否定しているだけでなく、それらを逆転させてしまうのです。天主が人類のしもべとしてとらえられているのです。人間は天主のようになりたいのです。
しかし、天主は、私たちの邪悪さと罪深さを使ってでも、さらに多くの御あわれみを示すことがおできになるのでした。天主は、半死半生の人類である私たちに、「良きサマリア人」である御独り子を送られ、私たちに赦しと浄めを与えてくださいます。この良き羊飼いは、迷える羊をあわれみ深く探し出し、御父の家へと戻してくださいます。イエズスが十字架に掛かり、私たちのために亡くなられたことは、天主の御あわれみの最大の現れです。「最後に至るまで」、主はご自分が持っておられるものすべてを、血のまさに最後の一滴まで、私たちにお与えになったのです。
しかし、人間の最大の悲劇は、多かれ少なかれ、その傲慢と自己満足の中に自らを閉じ込め、この至高のあわれみ深い天主の愛を受け入れないことにあるのです。天主の恩寵に自ら心を開いている人でさえ、天主がその御あわれみを完全にお見せになることを許しませんでした。なぜなら、「わが(天主の)心の計り知れないほどの愛に対する怠慢、無関心、忘却」があったからです。
では、天主の御あわれみを完全に受け入れ、天主のあふれるほどの恩寵に対する障害物を何も置かなかった人間がいるでしょうか? 実際に天主によって運命づけられ、天主がそうあるように計画なさったような人間を、私たちは見つけることができるでしょうか?
はい、その人こそが、インマクラータ、無原罪の聖母です! 聖母という存在はそのすべての点において、天主の御あわれみを反映したものです。聖母は天主からのものをすべて受け取り、受け入れられます。まさしくその結果、この天主の特性は、ある意味で、聖母においてご托身されているのです。聖母だけが、永遠の御父のすべての賜物を受け取られました。聖母は、天主がお下しになった善さに完全に心を開かれました。愛は、持っているすべてのものを与えることを望みます。天主は、被造物が受けることができるすべてのものを与えることを望まれます。そして、被造物の中で唯一聖母が、まことに天主の恩寵のすべてを受けたのです。なぜなら、聖母は、天主の愛に対して、いかなる障害物も置かれなかったからです。いつでも、どこでも、完全に、天主のご意志に対して「はい」と言われたのです。聖母は、絶対的に忠実に、天主の愛に応えられたのです。ためらいもなく、疑問もなく、疑いもなく! 天主ご自身が地上に来られるにあたって、聖母以上に良い道具と神殿はありえませんでした。それゆえに、最も善き御父の御摂理は、その汚れなき娘が、ほんの少しの悪に染まることをもお許しにならず、悪魔が聖母の霊魂へ触れることもお許しになりませんでした。これが聖母の無原罪のお宿りなのです。
無原罪のお宿りにおいて、私たちは、天主の御あわれみがまことに及ぶ範囲を発見するのです。まったく信じられないことであり、驚くべきことであるのは、天主が無でしかない被造物に対してどれほど多くを与えようと望まれるのか、天主の聖心が私たちの惨めさ(misery)に対してどれほど多く気にかけておられるのか、です。あわれみのラテン語である「ミゼリコルディア(Misericordia)」が示す通りです!
「見よ、わが最愛の子どもたちよ、われに造られし『無』よ、われに贖われし罪びとよ!
われは、わがあわれみを汝らに与えるに際して、無限の寛大さを示したい。汝らには無原罪の聖母が見えるか? 聖母がどれほど純粋か、どれほど美しいか、信じられないほどあらゆる徳にどれほど充ち満ちて、わが愛で燃える心を持っているかを? 最高の知恵、浸透する知性、わが永遠の命に満ち、聖霊の浄配、わが子の母、わが無限の力に参与するわが娘を? 汝らは、今までこのような被造物を見たことがあるか? これこそ、わがあわれみである!」
しかし、さらに次の段階があるのです。聖母は天主の御あわれみを完全に受けられたため、今度は聖母がその子どもたちすべてに対するあわれみの源となるよう、天主は望まれたのです。イエズスが十字架の上で聖母に対して「あなたの子を見よ」と言われたとき、聖母は私たちの霊的な母となられました。それは、聖母が私たちのためにすべての恩寵の母なる源、すべての恩寵の仲介者、あわれみの御母―「マーテル・ミゼリコルディエ(mater misericordiae)」になられたことを意味しているのです! このゆえに私たちは理解するのです、人々が聖母の助けを請い求めるところがどこであれ、子どもが愛情深い母親について知っているように、聖母は「あわれみ深く」、常にあわれみ深く、母としてのあわれみに満ちておられるということを。
天主は、私たちの救いと私たちの永遠の幸福を大変望まれています。天主が、地上における天主の御あわれみの目に見えるしるしとして、御子の人間としての聖心を造られただけでなく、私たちに「あわれみの御母」を、私たちを非常に愛してくださるその御母のあわれみ深く汚れなき御心とともに与えてくださったほどに!
あわれみの年は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけなのです。「われは慈悲を示そう! 汝らにわが賜物を、わが光を、わが宝を、わが愛を与えよう!」。私たちがしなければならない唯一のことは、心の扉を広く開けて、自分を本当に天主の方に向け、インマクラータ、無原罪の聖母に倣うことです。私たちが、すべてを受け入れるという聖母の態度をもちさえすれば、私たちは、 天主の御あわれみをもう一度受け入れ、私たちの罪の浄めという天主からの驚くべき御業に始まるあふれんばかりに豊かな賜物を天主からいただくことができるのです。なぜなら、天主は何度も何度も私たちをお赦しになるのにお疲れになることは決してなく、私たちの強情さや不忠実をご覧になるのではなく、私たちの最も小さな悔い改めのしるしさえもお使いになって私たちを無限の愛の賜物に再び浸してくださるからです。
では、「無原罪の聖母の騎士」とは何でしょうか? 人間の霊魂に天主の御あわれみを注ぐための聖母の道具なのです。私たちのすべての祈り、犠牲、使徒的活動には、唯一の目標があります。汚れなきあわれみの御母を、罪と誤謬というあわれみのない闇に座したままの愛する子どもたちに近づけさせ、聖母が彼らの心に触れて、天主の無限の御あわれみに向かわせ、天主が彼らを救い、聖人にするのを可能にさせることなのです。
2015年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、ニゴンボ(スリランカ)にて。
カール・シュテーリン神父
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ファチマ2017に向けて(3)
1916年夏―天使の第二の出現
ポルトガルの夏はいつも気温が非常に高いため、昼時には誰もが休憩します。ですから、子どもたちはしばしば、木陰で遊ぶためにルチアの家の庭にある井戸の近くで時間を過ごしました。そして、そこで突然、天使の2回目の出現があり、天使は彼らに言いました。
〈「汝らは何をしているのか? 祈れ、たくさん祈れ! イエズスとマリアの聖心は、汝らに対してあわれみ深い計画をお持ちだ。いと高き御者に、絶えず祈りと犠牲を捧げよ」
「どのようにして犠牲をすればよいのですか?」と、私は尋ねました。
「できることのすべてを犠牲とせよ。そして、天主に対してなされた罪を償うわざとして、また罪びとの回心の嘆願のために、それを天主にお捧げせよ。そうすれば、汝らは、汝らの国に平和を引き寄せることになる。私はその守護の天使、ポルトガルの守護の天使である。何よりも、主が汝らにお送りになる苦しみを受け入れ、それを担い、それに従順であれ。」〉
I.天使の重要な言葉について黙想しましょう。
1.イエズスとマリアの聖心
すでに最初の出現の終わりに、天使は言っていました。「イエズスとマリアの聖心は、汝らの嘆願の声を気にかけておられる」と。今回、天使は宣言します。「イエズスとマリアの聖なる聖心は、汝らに対してあわれみ深い計画をお持ちだ」と。三回目の出現のとき(次回の手紙を参照)、天使は子どもたちに、次の言葉で終わる有名な「天使の祈り」の第二部を教えます。「イエズスの至聖なる聖心と、マリアの汚れなき御心の無限の功徳によって、われ御身に罪びとの回心を請い願い奉る」。
これらの暗示は、聖母の偉大なメッセージの中心に、すでに私たちを連れていきます。明らかに、この子どもたちは、このような天からの重要な呼びかけのために準備することが必要だったのです。それゆえに、一つ一つの出現で天使はイエズスとマリアの聖心に言及しています。
最初の出現の間、子どもたちは天主ご自身に祈りますが、誰が彼らの祈りを「気にかけ」、その祈りを高めるのでしょうか? それは、イエズスとマリアの聖心です。
この非常に単純なことから、天主への唯一の道があり、それはイエズスとマリアの聖心の仲介によるのだということを、私たちはもう一度学びます。この出現では、天使は子どもたちに、彼らの将来の召命を告知しますが、これは彼らに対する無限の御あわれみの御業なのです。天主が、私たちの人生において成し遂げるようにお与えになる任務、いとも聖なる三位一体の「ご計画」、天主の聖なるご意志、私たちがそれを受けるのは、やはりイエズスとマリアの聖心を仲介としてのみなのです。
最後に三回目には、あわれな罪びとの回心の恩寵のことがのべられます。
それは、「イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によって」のみ実現するのです。
注意してください。一回目のとき天使は「聖心…」と言うだけです。
二回目には、天使は「聖なる聖心」とはっきりのべ、三回目には、「イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心」と、完全にはっきりのべています。
このように、子どもたち(と、その背後にいる私たちすべて)は、いつも黙想にもっと深く入っていくよう招かれています。
第一に、私たちは「心」とは何を意味するのか尋ねるべきでしょうか?
心とは、私たちの人格のまさに中心を意味し、私たちの持つ最も貴重な価値あるもの、私たちの親しさ、私たちの命の源、私たちの愛の座なのです。ですから、天使たちが私たちのことを「気にかけて」いると言うとき、つまり、天使たちが私たちと親しい関係を開こうとしており、私たちに彼らの愛を向けているのですから、私たちは彼らに関わりのないものではなく、それどころか、彼らの愛を引きつける対象なのです。
第二に、私たちは、二つの聖心は特別であることを理解する必要があります。二つの聖心は聖なるものです!
人間の心には、最良から最悪に至るすべてのものがあります。私たちの主がこう言われるように。「心から、私たちの最も内側から、悪い考えがやって来ます。ここで罪が始まります。ここで私たちはあらゆる種類の不純なものなどに執着してしまいます」。
しかし、二つの聖心は聖なるもの、つまり完全であって、けがれや闇はなく、美しさと光と満ちあふれる美徳、特に満ちあふれる愛の徳のみがあるのです。
この重要な詳細を明らかにすることで、天使は二つの聖心の 「あわれみの計画」を強調しています。
これはどういう意味でしょうか? 二つの聖心が計り知れない愛で私たちの方を向いており、私たちにその聖性を伝えることを望んでおられるのです。これはまさに、聖心の「あわれみの計画」です。
御あわれみ―「ミゼリコルディア(misericordia)」は、あわれな罪びとの無力さと惨めさ(miser)に向けられた聖なる心(cor)であり、その無限の宝で罪びとを満たすのです。では、この宝は何でしょうか? 二つの聖心の聖性、その信じられないほどの愛、永遠の幸福なのです。
第三に、それは無限の功徳を持つ聖心と汚れなき御心です。
これは何を意味するのでしょうか? 二つの聖心は、抽象的なもの、神学的な隠喩、神秘主義者の用語ではありません。非常に具体的なものであり、私たちの世界において具体的で目に見える歴史を持っています。
聖心は、歴史上すでに御出現があり、聖ヨハネ・ユードや福者クロード・ド・コロンビエール、特に聖マルガリタ・アラコックに説明をなさっています。それは、この「聖心」が正確に何を意味しているのか、聖心は何を望まれるのか、私たちにとっての聖心の重要性は何か、聖心がどのように崇拝されることを望まれるのか、聖心のお望みに応えた者にどんな恩寵が与えられるのか、ということです。
マリアの汚れなき御心は、ファチマで同じことを詳細に明らかにしようとしています。ですから、私たちが天からのこの具体的な訴え(の中身に)に取り組んでいくのなら、私たちは本当に「あわれな罪人を救う」のであり、またとても多くの他の恩寵を受けるのです。
2.平和の天使、守護天使、ポルトガルの天使
これは、私たちの人生における天使の役割についてすでにのべたことに、詳細な説明を与える重要なものです。この天使が自分自身に与えるこの称号は、この天使が非常に具体的な歴史的、政治的現実に関与していることを示しています。彼の出現の時点は、第一次世界大戦の最悪の期間でした。人々は平和を望んでおり、天使はまさにその平和を約束して、祈りと犠牲というそれを得る手段を与えました。人間の罪が償われ、天主の正義がなだめられたとき、懲罰が罪びとを回心に導いたとき、平和がやって来るのです!
また、私たち一人一人が守護の天使を持っているだけでなく、国や民族も守護の天使を持っているということを、私たちはここで学びます。さて、守護の天使の役割は、私たちをすべての悪から守ることと、私たちを天国に導くことです。それゆえに、私たち自身の霊魂だけでなく、私たちの国々も、天主とは何の関係もなく、私たちの運命とも関係のない世俗的な社会ではありません。天主は、天使を介して国や民族を守り、それらが正しい使命を達成するよう望んでおられます。その使命とは、天主の掟を守り、私たちの主イエズス・キリストを各民族の王と宣言することによって、キリスト教世界の秩序を保証し、促進させることです。
この「平和の天使」はどうして「ポルトガルの天使」なのでしょうか?
天使は名前を明らかにしませんでした。しかし、9月29日の聖務日課には、 「平和の天使ミカエル」とあります。ポルトガルは常に、その天における守護者として大天使聖ミカエルを崇敬していました。「ポルトガルの守護の天使」としての大天使聖ミカエルをたたえる祝日さえあります。それゆえに、おそらくは、ファチマの天使は天のすべての天使の長であり頭以外の何者でもないでしょう。このことは、ファチマのメッセージに対して、非常に特別な重さと重要性を与えるのです。
II.私たちへの教訓
1.質問「汝らは何をしているのか?」
天主がホレブ山で偉大な預言者エリアに出現されたとき、天主は突然、「エリア、汝は何をしているのか?」と言われました。
ファチマの子どもたちも、まったく同じです。子どもたちが遊んでいたとき、天使が突然その遊びを中断させて、聞きました。「汝らは何をしているのか。祈れ、たくさん祈れ!」。
霊的生活の達人は、しばしば、「私たちは今何をしているのか?」と自分自身に聞くよう私たちを招いています。
彼らは次のように強調したがります。私たちが生きているのは今だけであり、昨日でも明日でもないのだから、私たちの人生において今の瞬間が最も重要だ、と。私たちにできるのは、今だけなのです。私たちが天主をお喜ばせするか、天主をお怒りさせるか、時間を正しく使うか、無駄に使うか、といったことを。
私たちの守護の天使の声を聞きましょう。天使は沈黙のうちに、私たちに対して同じことを問いかけています。「汝は今何をしているのか? 汝は天主のご意志を果たしているか? 汝は、天国にいたるように自分自身を助けることを何かしているか? それとも、汝の時間を無駄にしているか? …」。
2.私たちの生活において重要なものは何ですか? すべてです!
ありふれたつまらないものでも、天主に私たちの愛を示すために機会にすべきです。
大きな犠牲を払うことや、生活に重要な変更をもたらすことが困難であっても、「自分ができることのすべてを犠牲とし、そして、天主に対してなされた罪を償うわざとして、また罪びとの回心の嘆願のために、それを天主にお捧げすること」は、ずっと簡単です。私たちの動き、労働と休息、昼と夜、多くの小さな試練や困難のすべて、私たちの生活の環境すべてでさえも、信じられないほどの偉大なことや価値あるものに変えていくことができるのです。「天主に対する一つの愛のわざは、自然界の全宇宙よりも価値がある」と聖トマス・アクィナスは教えています。ですから、まさしくそれが、そのような生活をした2年後にフランシスコとヤシンタを聖人にするのです。天使の要求することに私たちがもっと寛大にお応えするならば、私たちの平凡で普通の、ささやかな、取るに足らない日常生活が、いかに変化し、多くの人々の救いと私たちの聖性の源になるでしょうか!
3.苦しみの重要性
「犠牲」を告白する人が「苦しみ」を告白する。
天使は強調します。「何よりもまず、主が汝に送られる苦しみを従順に受け入れよ」。
のちに、シスター・ルチアは、天使のこの言葉を思い出してこう言いました。「この言葉は、私たちの心に消えることのなく刻まれました。その言葉は、天主がどんなお方であるのか、天主が私たちをいかに愛しておられ、私たちに愛されるよう望んでおられるのか、犠牲の価値、犠牲が天主をいかにお喜ばせするのか、犠牲によって天主がいかに罪びとに対して回心の恩寵を与えてくださるのか、を私たちに理解させてくれた光のようでした。そのときから、私たちに屈辱と感じさせるすべてのことを主にお捧げし始めたのは、この理由のためでした」。のちには、聖母御自身が、私たちの聖化のため、私たちの「霊魂の救い主」としての役割のため、この最高の教えを続けてくださることになります。
もう、私たちは、この天使の言葉を暗記し、一つ一つの言葉を人生における光のように何度も何度も黙想していなくてはなりません。まず私たちは、苦しみがやって来るときには「受け入れる」のであり、(いつものように)拒否したり不平を言ったりすることのないように学ばなければなりません。そのとき、私たちは、生活の中の苦しみが「偶然や不運によって」やって来る災厄ではなく、私たちの主から送られたのだと理解しなければなりません。なぜなら、主は私たちを愛しておられ、それゆえに、私たちが多くの功徳を積むことを望んでおられるからです。主は、この世において、主とともに十字架の道を歩む人々に、苦しみの道を歩む人々に、いかに多くの報いを用意してくださっていることでしょうか!